東浦ふるさとガイド協会会員 市野忠士 著
① 伝通院(でんづういん)とは 2011年(平成23.2.17午前11時)
2011年(平成二十三年二月十七日)に東京の小石川にある伝通院を見学・お参りしてきました。この日の午前中に友人と日本橋を訪れた後で、わが町出身の最大の有名人である「於大の方」の菩提寺である伝通院をお参りしてきたのです。
「東海道」を京都三条大橋からから江戸の日本橋まで6年かけてようやく踏破しました。その最後の5㎞を残してこの日の朝に、JR田町駅から銀座通りを経て日本橋まで歩きました。
そして時間的に余裕を作って、地下鉄を乗り継いで、伝通院まで出かけました。地下鉄後楽園の駅から春日通(かの有名な春日の局の住まいがあった通り)から富坂と呼ばれる急坂を登り、伝通院前の信号を右に折れて、伝通院に向かいます。真新しの山門(まだ工事中)を眺めながら、その横から伝通院に入りました。
現在では伝通院というお寺の名前になっていますが、元々は、於大の方の院号(死んでからの名前:於大は夫の久松利勝の死後に、生きている内からすでに戒名をもらっていたのです)なのです。それが、「伝通院殿蓉誉光岳智香大善定尼」という名であり、通称「伝通院様」で通っていました。
於大の方が死んだ時はすでに、徳川家康が天下を取ってからであり、江戸で盛大な葬式を行って、それまでにあった寿経寺と言うお寺を、「伝通院」と名付けて、於大の方の菩提寺と決めたのです。
そもそも普通のお寺には「山号・寺号・院号」と三つの名前を持つものであり、お寺ごとに、そのうちのどれかを通称にしています。
この通称の伝通院も正式名は「無量山・伝通院・寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)」と言います。しかしこのままでは長たらしい名前になりますので、於大の方をしのんで「伝通院」で通用しています。それで、伝通院というと、於大の方をも意味しますが、この伝通院寿経寺をも意味します。この付近の人に「寿経寺はどこですか」と聞いても通じません。「伝通院」と聞けば通じます。
② 於大の方の菩提寺
於大の方は征夷大将軍になった家康を生んで、1年後には、松平家を離縁されて悲運の母と言われていますが、家康が天下を取るまで長生きをしています。1600(慶長五)年に関が原の戦いが行われて家康が天下を取ります。征夷大将軍に任命されるのは1603年ですがこの年の秋には実質の天下人になります。そして次の年の1601年に於大の方も京都伏見城に呼ばれて、家康の元で「天下人の生母」として生活し、朝廷や秀吉の本妻「ねねの方」にも挨拶しています。
そして、1602(慶長七)年八月二十八日に死亡します。享年72歳で、当時としては天寿を全うした年齢です。我が子の天下征服を見ての安楽死です。ちなみに、家康も1616(天和二)年に、前の年に大阪城の豊臣秀頼を滅ぼして徳川幕府の安泰を見て母親の於大と同じ72歳で亡くなっています。どちらも長生きした上での大願成就の幸せな人生を送ったことになります。
なお、於大の方のお墓の横には「八月二十九日」と、大きく刻まれています。各種の記録では28日になくなっているはずですが、不思議なことに、この墓の記録だけは二十九日になっています。単なる家康の記憶違いか、石工の彫り間違いなのか、あるいは何か特別の事情があってわざと1日遅らせたのか。この文字のために学者や歴史研究かによっていろいろな憶測がなされて未だにはっきりしていません。罪作りな文字です。
於大の方が亡くなると、家康としては自分の生母の葬式を盛大に行わなければなりません。京都伏見城で亡くなりますが、ここは家康の本城ではありません。於大の方の遺言により、遺骸を江戸に運び、大塚町の智香(光)寺で火葬にし、位牌は安楽寺(蒲郡市)等に置き、光岳寺(千葉県関宿:息子の領地)等を菩提寺としました。
家康としては、徳川家の菩提寺として芝の増上寺を予定しましたが、増上寺の観智国師から言われた、「徳川幕府を生んだ母上なのだから、増上寺を開山した聖聡上人の師の了譽上人が庵を開いた場所の方がより適切である」との意見を聞いて、今の小石川の位置に寿経寺を移転させて堂宇を建設し始めました。院号を母の「伝通院」として、5年後の1608(慶長13)年に正譽廓山上人を住職にして盛大に落成式・法要を行いました。
③ 於大の方のお墓
於大の方のお墓はこの伝通院の本堂の西に巨大な五輪の塔が現在も立っています。
東浦町の乾坤院にある四代の墓はこの於大の方の墓より60年ほど後に作られていますが、岡崎産の花崗岩で造られていて今でも、文字がはっきりと読み取れます。しかし於大の方の墓は、どこの産地の石なのか、あまり良い石でない様で、全身が真っ黒けになっていて刻まれている文字もとても読みづらくなっています。どうせなら家康の生まれた岡崎産の花崗岩を使えばよかったのですが、まだ、幕府ができたばかりで余裕がなかったのでしょうか。
乾坤院と同じ五輪の塔ですが形はかなり違ってます。高さが1.5倍はあると思われます。やはり将軍様の生母となると高さが大事だったのでしょうか。五輪の塔は上から「天・風・火・水・土」あるいは「頭・顔・胸・胴・脚」を現してます。焼香して
きました。
④ 於大の方の墓の案内板
この寺の墓の中で1・2を争う大きな墓であり、よく目立ちますが、墓前には写真の湯女案内板が立っていました。
「於大の墓(於の字が書き換えてある)区(東京都文京区:町指定の文化財と同じ)
享禄元(1528)年生まれ:慶長七(1602)年逝去徳川家康の生母で、三河(愛知県)刈屋(刈谷市)の城主水野忠政の娘で、天文一〇(1541)年に岡崎城主の松平弘忠と結婚し、翌年に家康を生む。後に離婚して、阿古屋(知多郡阿久比町)城主の久松利勝と再婚する。人質として織田方や今川方を転々としているわが子家康を慰め、音信を絶やさなかったと言われる。
法名 伝通院殿蓉誉光岳智香大善定尼
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
以上が案内板に書かれています。残念ながら東浦町も緒川もこの看板には書かれていません。残念なことです。
亀城と呼ばれる刈谷城ができたのは於大が6歳の時であり、それまでは生まれた時から緒川城に住んでいたはずですが、無視されています。
そしてこの看板の下に。「記念樹 卯の花 愛知県東浦町」の小さな石碑と、枯れかかった小さな樹木がありました。季節が悪いので、葉を落として枯れたように見えましたが、「枯れているのではない。春には美しい白花と緑葉を沢山付けてくれる」ものと心から願いました。
墓前に線香を手向けようと、売店で二百円出して一対の線香を購入しました。その時に、「於大の方の生誕地から来ました」と言ったら、
「ああ、東浦町の方ですか」と聞かれました。売店の方は愛知県東浦町を知っていました。安心しました。できれば看板を書き直してもらえると良いですが、経費も掛かることですのでこれで我慢するしかありません。
⑤ 伝通院の歴史明治維新まで
伝通院は元々室町時代半ばの応永二十二(1415)年、当時まだ武蔵野の田舎であった時に、浄土宗第七祖の了譽聖冏(りょうよ・しょうげい)上人が小石川の極楽水(現在地より北西800mほどの地)に、草庵を結んで無量山寿経寺として開山しました。本尊は平安時代の恵心僧都の作といわれる阿弥陀如来像です。田舎の寂しいお寺として存続しましたが、慶長八(1603)年に、浄土宗であったことから、徳川家康の命により、現在地に移転して、無量山寿経寺に伝通院を付け加えて、無量山伝通院寿経寺となりました。敷地も現在の領域の何倍もある広大な広さを与えられました。
家康は徳川家の菩提寺を芝増上寺にする予定だしたのでそちらに祀ろうとしましたが、増上寺の観智上人から、徳川幕府の基になった人だから、増上寺の基になった聖聡上人の師匠に当たる了譽上人の開いたお寺の方が理にかなうと勧められたからです。
江戸時代には寺領600石をいただき、多くの堂塔や学寮を有し、多くの学僧を育てた由緒ある寺院です。僧は最高位の「紫衣」を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となりました。江戸の街中での「江戸三霊山」と呼ばれ、芝増上寺・上野寛永寺と並び信仰を集めました。ちなみに、乾坤院は寺領50石・善導寺は20石でした。
以後、「千姫」など徳川家ゆかりの婦女子の菩提寺になります。元和九(1623)年に寺領830石になりました。慶長十八(1613)年には学僧300人が増上寺から移され、関東十八檀林(仏教学問所)の上席になり、多い時には千人もの学僧が修行したそうです。
享保六(1721)年と享保十(1725)年の2度も大火に見舞われていますが、江戸名所図会・無量山境内大絵図(1812)・東都小石川絵図(1857)にもその壮大な様子が分かります。高台にあり風光明媚なために、富士山・江戸湾・江戸川・江戸城なども眺望できました。
幕末になると、文久三(1863)年に、新撰組の前身である浪士組の結成が、境内にある塔頭(たっちゅう:附属の寺)のひとつ処静院で行われ、山岡鉄舟・清河八郎・近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まりました。
また明治元(1868)年の彰義隊結成もこの地で行われました。しかし、明治維新により、徳川幕府の庇護もなくなり、廃仏毀釈運動で、塔頭や別院が独立し、境内が現在のように狭くなりました。塔頭のひとつが信濃の善光寺の分院となり独立したり、学校のひとつが「淑徳女学校」となって独立しました。門前前から東への道が今でも善光寺坂と呼ばれています。
⑥ 永井荷風
明治維新により幕府の保護はなくなりますが、墓地が一般にも開放されましたので、庶民の墓が立ち並ぶようになり、賑わいだします。また周りは文教地区(文京区)ですので、多くの文人が住み、多くの文学作品の中に「伝通院」として登場します。
東浦町の緒川に縁のある永井荷風は父が尾張藩から推薦されてアメリカへ留学し、帰国後に小石川の伝通院の近くに住んでいる時に生まれました。
明治二十六(1893)年までそこで育って、随筆「伝通院」を明治42年ごろに発表しています。荷風は明治41(1908)年に外遊から帰国し、ぶらりと伝通院を訪れたその晩に、本堂が焼失(3度目の大火)してしまったそうです。随筆「伝通院」に、
「なんという不思議な縁であろう。本堂はその日の夜、追憶の散歩から帰って眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記されています。
また、荷風は、「パリにノートルダム(聖母)寺院」があるように、日本には小石川の「伝通院(徳川幕府の母)」があると自慢したのでした。
永井家は、十万石の大名永井直勝の子孫で、名古屋市星崎にて帰農した家です。緒川の沢田仁右衛門家と直勝は従兄弟関係でした。江戸時代にも身分を越えて付き合いがありました。その関係もあって、仁右衛門家が長く本陣を勤めていたのです。尾張藩主とも「お目見え」として名字帯刀も認められていました。
また永井家は、星崎(名古屋市南区鳴尾)に住み着いていますが、菩提寺が2つあり、女墓は星崎にあり、男墓は東浦町の緒川の了願寺(浄土真宗)にあるのです。男墓とは、一家の主人と、主人より後まで生きられた奥さんの墓です。
主人より早く死んだ奥さんや子供たちは女墓に納められたのです。
永井荷風も緒川に納められるところですが、父親の代に東京に引っ越して、そちらに新しい墓を作ってしまいました。江戸時代の尾張藩の漢学者「永井星渚」の墓などが了願寺にあります。
永井荷風以外にも、夏目漱石が若い頃にこの近くに下宿していたので、小説「こころ」で、伝通院について著しています。また幸田露伴も関東大震災後にこの付近に引っ越してきて、現在もその子孫の方が住んで見えます。
伝通院の出てくる作品には次のものがあります。
○ 菊池寛:若杉裁判長・納豆合戦
○ 佐々木味津三:右門捕物帳・首吊り5人男
○ 徳田秋声:新世帯・微・足迹
○ 岡本綺堂:有喜世新聞の話
○ 宮本百合子:一本の花
○ 中里介山:大菩薩峠(禹門三級の巻・白骨の巻)
○ 夏目漱石:琴のそら音・趣味の遺伝・こころ・それから
○ 夢野久作:街頭から見た新東京の裏面
○ 二葉亭四迷:平凡
⑦ 戦災~現在へ
関東大震災の時には類焼することなく助かりましたが、第二次世界大戦の時には、終戦3ヶ月前の昭和二十(1945)年5月25日の大空襲で、文京区の小石川付近は全焼してしまいます。
伝通院もお墓を除いて焼け野原となります。本堂は4度目の全焼です。江戸時代から続いていた山門も焼失します。将軍家の庇護を受けていたものはすべてなくなります。
戦後の苦しい中でも復興に努め、昭和二十四年に本堂が再建されました。しかし、財政難の中で建設されたものであり、「伝通院」としての格式がありませんでしたので、昭和六十三(1988)年に、本格的に立て直して、現在の本堂が完成しました。
平成23年の現在は、山門を再建中で、その全貌はすでに出来上がっています。
我々はこの伝通院に30分ほどいましたが、入った時にひと団体が、帰る時にまた別のバスがやってきました。この伝通院は一級の観光地ではありませんが、観光客が訪れる名所のひとつであることが分かります。
一番観光客が少ない2月の半ばにも観光客がやってくるようです。もっとも彼らがどのお墓を拝み・見学に来たかが分かりませんでした。多くの有名人の墓もありますので、於大の方を拝みに来たとは言い切れませんが。お墓の入り口には事務所兼売店があり、線香や記念品も販売しているようです。於大の方の墓が一番分かりやすいところにあり目立つとこころにあるのですから、別の人を拝みにきたのでも、於大の方が目に入ることでしょう。これに、NHKの大河ドラマで「於大の方」をやってもらえれば、観光客が殺到することでしょうに。境内には葬儀場もあります。本日も1つの葬儀の通夜が行われる看板が立っていました。墓地の敷地の隅の方にはまだ空地がありました。まだ墓地を増やすことができます。年中行事としては、春には桜がきれいに咲き花見客が訪れます。7月の第3週の土日には「朝顔市」が行われます。変わった朝顔が沢山並びます。伝通院の山門の前には、「日本指圧専門学校」があります。一時期テレビでよく出てきた「指圧のこころは母心・・・」の浪越徳次郎氏が創設した専門学校です。浪越徳次郎氏のお墓もありますし、彼が寄贈した「指塚」も境内にはあります。
⑧ 伝通院に埋葬されている有名人(没年順)
"了誉聖冏(1341-1420。浄土宗第七祖で、伝通院の開山上人。三日月上人・繊月上人ともいう)
"伝通院(1528-1602。傳通院殿蓉誉光岳智香(智光)大禅定尼。家康の母。墓は本堂の左側に五輪の大塔がある)
"正誉廓山(1559-1625。伝通院の中興第一世。増上寺の十三世)
"徳川亀松(1643-1647。月渓院殿。三代将軍徳川家光次男)
"お夏の方(於奈津)(1581-1660。清雲院殿。家康側室)
"千姫(1597-1666。天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。二代将軍徳川秀忠の長女、豊臣秀頼・本多忠刻の妻)
"鷹司孝子(1602-1674。本理院殿照譽円光徹心大禅定尼。三代将軍徳川家光正室)
"藤井紋太夫(?-1694。光含院。水戸徳川家の家老。主君徳川光圀によって刺殺される)
"葛西因是(1764-1823。儒学者)
"清河八郎(1830-1863。幕末の勤皇志士、浪士組の創設者。首だけ埋葬)
"阿蓮(おれん)(生没年不明。清河八郎の妻)
"沢宣嘉(1835-1873。幕末の公卿、明治期の政治家)
"杉浦重剛(1855-1924。思想家・教育者)
"古泉千樫(1886-1927。歌人)
"簡野道明(1865-1938。漢学者)
"千種任子(1855-1944。明治天皇側室(権典侍)・滋宮韶子内親王(明治天皇第三皇女)・増宮章子内親王(明治天皇第四皇女)の生母)
"佐藤春夫(1892-1964。詩人・作家。永井荷風に師事)
"高畠達四郎(1895-1976。洋画家)
"柴田錬三郎(1917-1978。直木賞作家。「眠狂四郎無頼控」の作者)
"橋本明治(1904-1991。日本画家)
"浪越徳治郎(1905-2000。指圧療法の確立者)
"矢数道明(1905-2002。医師。東洋医学、漢方医学者)