織田信長と松平元康(家康)は同盟を結びました。
元康は三河平定に動き出します。
夫久松俊勝は元康に従って三河に出陣します。
上ノ郷城跡に、裏から行ったのですが、こんな道です。
夫久松俊勝は上ノ郷城を攻め、その戦功により西郡を与えられます。
特に公園になっているわけでもなく、整備はこれからでしょう。
何もありません。
観光で訪れるという場所ではないですね。
蒲郡市内の眺め。
蒲郡みかん(甘いんです)の産地です。
蒲郡は温泉あり、ラグナシア(テーマパーク)ありで、観光地です。
住所は、愛知県蒲郡市神ノ郷町です。
久松俊勝は、坂部城(阿久比町)を先妻の子信俊に譲り、阿久比の地を離れました。
そして、この上ノ郷城には康元を置き、自身は、岡崎の警護に当たりました。
康元は於大と俊勝の長男で、後に下総の関宿城主になります。
於大は俊勝とともに岡崎城に移りました。
1562年(永禄5年)。
於大35歳。
岡崎城は、昭和34年に復元され、鉄筋コンクリート構造になっている。
岡崎城内にある「礎石」。
パワースポットになっている。
於大が、岡崎にいる間も戦国の世はめまぐるしく変わっていきます。
1563年(永禄6年) 松平元康から松平家康へ改名。
1566年(永禄9年) 松平家康から徳川家康へ改姓。
1570年(元亀1年) 家康、岡崎城から浜松城へ移る。
写真は岡崎城天守閣から北(大樹寺)方面。
1572年(元亀3年) 三方ヶ原の戦い。
1575年(天正3年) 長篠の戦い。
写真は岡崎城天守閣から東方面。
1575年(天正3年:於大48歳) 佐久間信盛の讒訴のため信長の命により水野信元(於大の兄)は家康によって殺される。水野一族は分散。
写真は岡崎城天守閣から南方面。
1580年(天正8年:於大53歳) 水野信元に罪がないことが分かり、関係修復される。
写真は岡崎城天守閣から西方面。
話は横道にそれますが、岡崎公園では、「グレート家康公葵武将隊」と称する方々がおもてなしをしてくれる。
平岩親吉。
土日祝は総勢9名による演武が行われる。
井伊直政。
平日だったので、4名の方と会えました。
稲姫。
最後に登場したのが、家康公でござる。
役になりきって、昔言葉で話しかけてくる。
殿さらばじゃ。
1587年(天正15年)。
「於大の方」60歳。
夫久松俊勝は西郡で亡くなりました。
安楽寺にある久松俊勝の墓。
安楽寺は愛知県蒲郡市清田町にあります。
久松家の菩提寺である洞雲院。
洞雲院は坂部城のすぐそばで、「於大 久松家に嫁ぐ」の項で紹介しました。
久松・松平家葬地の案内。
また後ほど紹介しますが、「於大の方」の遺髪を納めたお墓があります。
1588年(天正16年)。
「於大の方」61歳。
再び安楽寺。
「於大の方」はこちら安楽寺で約2年間、仏事に励まれたそうです。
山門。
剃髪し尼となり「傳通院(デンヅウイン)」の号を授かる。
安楽寺は浄土宗西山深草派です。
参考 「於大の方と水野氏」(東浦町教育委員会)