於大の方 逝去

家康の天下統一により、戦のない世の到来をもたらしました。
もう思い残すことはないと悟ったのでしょうか?
1602年、75歳の生涯を閉じました。

1602年(慶長7年)。
伏見城で家康らに看取られながら、75歳の生涯を閉じました。

写真のお城は前編でも取り上げましたが、伏見城のレプリカです。

 

京都の足はバスが便利です。

 

知恩院。

 

知恩院は浄土宗の総本山です。

三門。
木造の門としては世界一だそうな。

 

御影堂(ミエイドウ)。

「於大の方」の葬儀はここ知恩院で営まれました。

 

戒名は「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」。

 

「千姫の墓」があります。

 

濡髪大明神。

 

増上寺(東京都港区)。

知恩院での葬儀が済むと、遺骸は直ちに江戸表に運ばれ、増上寺に納められた。

 

増上寺にとっては、於大の菩提を弔い、葬儀を行うことは、きわめて名誉なことである。

 しかし、増上寺の僧正が次のように強く家康に訴えた。

 「本山の開祖聖聴上人は、吉永山伝法院の開祖了誉聖冏上人の恩徳に深く帰依されていた。

 了誉上人は著述も五百巻に及び、神道、歌道の哲人であり、和漢孔老の学問にも造詣が深かった。

 上人は武蔵国豊島郡小石川の清泉のほとりに、小さな草庵を結び、そこで天寿をまっとうされた。

今は、このような名徳の旧跡もあとかたもなく消え失せている。

この機会に是非、了誉上人の遺跡を再興したいため、その地で葬儀を行いたい」と。
家康は大いに喜び、本多佐渡守等に命じ、新寺の建立にあたらせた。

これが伝通院のおこりである。     参考 文京区史跡さんぽ実施報告書より

 

増上寺には徳川家霊廟があります。

於大の方は大塚原で荼毘に付されました。

そしてその場所にお寺が二つ建てられました。

 

写真はその一つの「智光寺」。

 

智光寺の階段を登ります。

境内には於大の方ゆかりの塔があります。

現在の住所は、
東京都文京区大塚3丁目 ですが、区画整理のためこちらに移ってきたとのこと。
前の場所は、もう少し傳通院よりであったそうですが、今は跡形もないそうです。

「光岳寺」。
調布市富士見町にあります。

 

荼毘にふされた後、二つのお寺が建てられました。
そのもうひとつが光岳寺です。

 

大塚から調布の地に移り、さらに飛行場の拡張により、この地に移転しました。

於大の方の五輪の塔です。

墓地の片隅にあります。
案内してもらえなければ、分かりません。

風化しているが、真ん中に「傳通院」が読み取れる。

 

三葉葵の紋所が瓦にありました。

傳通院。

 

正門がそろそろ竣工しそうである。

 

※訪問時期が2011年6月です。現在は完成しています。

「於大の方」は傳通院に葬られました。

 

観音堂(休憩所)。

「於大の墓」の立て札。

 

「於大の方」が永眠しています。

 

於大の方の法要は、縁のある各所で営まれました。
遺髪は洞雲院(阿久比町)と大泉寺(岡崎市)に納められました。
写真は洞雲院。

洞雲院の遺髪墓。

大泉寺のお墓。

位牌は善導寺、乾坤院、洞雲院、楞厳寺、光岳寺(野田市)などに祀られている。
光岳寺は野田市教育委員会による。

写真は善導寺内 観音堂(愛知県)。

光岳寺(野田市)。

 


参考 「於大の方と水野氏」(東浦町教育委員会)



 

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