14歳で松平家に嫁いだ於大は、翌年15歳で竹千代(徳川家康)を生みます。
ところが、戦国時代の悲哀が始まります。
松平家は今川方でした。
しかし実家の水野家が織田方に旗色を鮮明にしました・・・。
1543年(天文12年)父水野忠政が亡くなりました。
竹千代(徳川家康)を生んだ翌年です。
於大16歳。
写真は水野忠政の墓です。
水野忠政の墓は「乾坤院」にあります。
「乾坤院」は愛知県知多郡東浦町緒川にあります。
緒川城址の近くです。
水野家の家督を継いだのは兄信元です。
信元は織田方に旗色を鮮明にしました。
写真は「乾坤院」。
夫の岡崎城主松平広忠は今川方なので、於大の方は敵方の妹ということになります。
松平広忠はそのままにしておけず、離縁することにしました。
広忠にとっても苦渋の決断でした。
1544年(天文13年)、3歳の竹千代を残して刈谷へ帰ることになりました。 於大17歳。
刈谷での住まいとされた「椎の木屋敷」。
「椎の木屋敷」の由来が書かれている。
宅地化のため当時の趣が失われたそうです。
銅像が置いてあります。
住所は愛知県刈谷市銀座6です。
トイレの男性の表示が面白い。
「楞厳寺(リョウゴンジ)。
椎の木屋敷にいたこのころ、刈谷水野家の菩提寺である楞厳寺に度々参詣したといわれます。
楞厳寺で仏門に入りました。
1546年(天文15年)。
於大19歳。
ここの住所は愛知県刈谷市天王町です。
このころ、「乾坤院」や「善導寺」に度々参詣したといわれる。
善導寺。
1605年に海辺から現在地に移されているので、於大の方は現在の善導寺に来ていないことになる。
写真は毎年9月に開催される「お月見コンサート」一コマです。
「善導寺」は愛知県知多郡東浦町緒川にある。
1547年(天文16年)、坂部城主久松俊勝に嫁ぎました。
於大20歳。
20歳で再婚なんて、現代では考えられない。
平城なのでこの坂を上る間もなく城に。
坂部城址。
愛知県知多郡阿久比町卯坂にある。
坂部城址の碑。
於大の方はこの地で、35歳までの15年を過ごすことになる。
もう400年以上も前のお話なんですね。
洞雲院。
久松家の菩提寺です。
坂部城のすぐそばにあり、於大の方は常に参詣していたといわれます。
ちょうど建て替え中でした。
久松俊勝との間に、三男四女をもうけます。
子育てに忙しい日々であったでしょう。
この坂部城での15年の間・・・・
村木砦の戦いがありました。
1554年、於大27歳の時です。
今川軍の村木砦を水野信元(於大の兄)と織田信長の連合軍がこれを攻め落とした戦いです。
信長にとってもこれからの天下取りに重要な意味を持つ戦いでした。
また初めて鉄砲を使用したと言われている。
この村木砦は愛知県知多郡東浦町森岡取手にある。
石ヶ瀬古戦場跡。
この戦いは、織田方の水野信元(於大の兄)と、今川方の於大の息子の元康(家康)の戦です。つまり叔父さんと甥の戦いになる。
たびたび戦いがありましたが、最初の戦は1558年(永禄1年)(於大31歳)です。
桶狭間の戦い(1560年)の後、水野信元を仲介として織田信長と松平元康(家康)が1562年(永禄5年)(於大35歳)同盟を結びました。
織田の脅威がなくなった元康は三河平定に動き出します。
石ヶ瀬は、川の名前で残っている。
愛知県大府市と愛知県知多郡東浦町の境です。
当時はこの辺りまで、入江になっていたという。
参考 「於大の方と水野氏」(東浦町教育委員会)